判断の選好逆転

Takami Torao
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完全に合理的な判断ができているのであれば前提条件が変わらない限り判断が変わることはない。しかし人は問題のとらえ方に流されて異なる判断を行いがちである。

個別評価と比較評価

人は個別評価では感情的・情緒的な部分を重視し、比較評価では合理的・論理的な部分を重視する。

問 1: あなたは本屋で辞書を探している。まず 200 万語が収録されカバーが破れている辞書を見つけた。あなたはその辞書を買おうと思っただろうか?

問 2: どうやら本屋には 200 万語が収録されてカバーが破れている辞書の他には、100 万語が収録された綺麗な辞書しかないようだ。あなたはどちらを買おうと思っただろうか?

200 万語の収録語数もカバーが破れている事も、事実は何一つ変わっていないのに問 1 と 2 で買う/買わないの判断が逆転しなかっただろうか。問 1 では「200万語」に対する適切な評価基準がないため収録語数が判断の対象にはならなかった。その代わりに「カバーが破れている明確な事実」が不快感とともに過度に見積もられたと考えられる。一方で100万語という明確な比較対象ができた問 2 では「カバーが破れていることは辞書が必要であることと本質的に関係がない」ことを思い出し判断の選好逆転が起きたのである。

人間の思考は「比較」を用いることなしに高度で合理的な判断を行うことが難しい。このため比較を行うことができるかどうかで判断の選好逆転を起こすことがある。

「企画や提案は必ず 2 案以上持ち込め」「1案だけでは粗探しされて終わるだけだ」といったアドバイスを受けたことはないだろうか。これも個別評価と比較評価の行動心理によるものである。1 案だけでは評価者が個別評価に陥り無意識のうちに感情論に流れてしまいがちだが、2 案以上になれば比較評価となるため合理的な判断が行われやすい。

人は合理的な判断がなされると都合が悪いとき、問題の個別評価を注目させて感情論を重視した意思決定をさせようとすることがある。「100万人の雇用を生む政策を立てていて違法献金を手にした政治家」という個別評価で立候補者に投票しようと思うだろうか? しかしその対抗馬が「30万人の雇用を生む政策を立てていてクリーンな政治家」だった場合は選好逆転が起きないだろうか。対案のない批判は、個別評価に注目させることで感情論に流れさせ合理的な判断を阻害することから、議論の場において行ってはならないことは明かである。

サブウェイのサンドイッチ問題

先日、サブウェイが4年間で170店舗を閉店したというニュースがありネットでは「マクドナルドを見習ってヘルシーさよりもボリュームを重視すべき」といった意見も散見された。

ファストフード店の利用者に「どんなサンドなら買うか」とアンケートを行えば多くの人が「野菜が多くてヘルシー」と記入するだろう。しかし、現実には利用者の声を愚直に反映した商品が全く売れないのはマーケティングの経験則である。

このような選好逆転は、「どんなサンドなら」と個別評価に注意を向けられた利用者が印象のみから「ヘルシーさ」を過剰に見積もる一方で、実際に選ぶ段階ではメニューの上での比較評価となるため、コストや満足感などが考慮されより合理的な選択がなされることから生じる。そしてメニューには「ヘルシーでコストの高いサンド」と「肉厚ジューシーで割安に見えるサンド」が並び、皮肉にも比較評価によって後者の売上が伸びる。

ここで何が問題なのかをよく考てみると、しばしば言われる「だからユーザの声を信用してはいけない」よりもう一歩踏み込むことができる。一点は比較評価の判断となるように設問の作り方を少し考慮すべきではないかということ。もう一点は最後まで個別評価しかできない状況であれば「ユーザの声に沿った商品」も支持されるのではないかという仮説。

最後まで比較評価できないとはいわゆる「たられば」に意味がない事象である。国家規模では戦争や外交、税制、都市計画のような公共事業。企業では買収、投資、採用。個人では出産、進学、就職、結婚といったものが該当する。

参照

  1. マックスベイザーマン, ドンムーア (2011), 行動意思決定論―バイアスの罠, 白桃書房